昭和48年01月31日 朝の御理解
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」
話を聞くそして、それを生活の上に頂くと。そこから現れてくる愈々信心が信心を教えてくれると。仕事が仕事を教えてくれると言った様にです。限りなく練りだされてくる。限りなく、おかげの頂けれる道が開けて来る。お徳の頂けれる道が愈々はっきりしてくる。ですからおかげの頂けれる道。又はそれがお徳が頂けれる道と言う事に繋がるような、練り出し方でなからなければいけない。
それを少し信心が分かって、少しおかげを頂くと、もう我流の信心になってね、そしておかげは頂いても、お徳を頂いていく信心をしない。これは残念。所謂おかげの頂けないような練り出し方をする。いうならば楽でおかげを頂こうと言った様な、自分よがりの我流の信心。なるほど一つのおかげを頂く、こつと言う様なものを体得致しますとね、おかげは受けられても、しかしそれから徳は受けられない。
信心は限りなくおかげを受けるというおかげは、これはお徳のことです。限りない。それは私一代じゃなくて、子供に孫にまでも伝わって行くような、限りないおかげの頂けれる道が練り出されてこなきゃならんのですけれども。楽な信心を取らせて貰う。楽な自分で理屈をつけて、自分で結構練り出したつもりでおる。そういう信心ではつまりませんからね。そこでここで日々、皆さんに聞いて頂く信心。
ここで御理解を、皆さんが頂かれるというのはまぁいわば、私の日に日にさらな信心から練り出されてくる信心を聞いて頂くのですから。私は毎日毎日が、いうなら私の信心の歩みといったようなものを感じます。ですから皆さんここんところをです、本気で一つ頂いて貰わなければならん。話を聞くだけが能ではない。けどもここの場合は、話を聞かなければならない。そしてそれを実際の行の上に現わさなければならない。
そこからまた、おかげの受けられる、お徳の受けられる道が、愈々開けてくるというおかげでなからにゃならん。そうしてどう言う様な事が、愈々確信付けられてくるか。どういう事が、愈々はっきりしてくるかと言うことはですね。いわゆる高橋一郎先生のお言葉の中にありますように、「お取次ぎを頂いて起きることはみなよい」。これなんです。「お取次ぎを頂かずして起きたことは良いこと悪いことみな悪い」と。
このねこの確信が、いよいよ、日々の信心の稽古をさせて頂いて、お取次ぎをさせて頂いて、信心の稽古をさせて頂く。そしてこの思いが愈々、本当だなぁと確信付けられてこなければ、金光様の信心が成長しておるとは言えません。この思いはもう限りがないです。お取次ぎを頂いて起きることはです、良い事悪い事みな良いです。起きてくる悪い事のようだけれども、それは結果においては必ず良いという。
といういうならば体験です。お取次ぎを頂かずして起きてくる事は、それは良い事悪い事、お取次ぎ頂かじゃったばってん、こげん儲け出ぇたと言った様なのは、必ず悪いという結果しか出てこない。と言う事をね確信出来れると言う事。そこから金光様の御信心、所謂お取次ぎの道といわれる、お取次ぎの道が愈々冴えてくる。愈々その道がはっきりしてくる。この道はおかげの道ではなくて。
もうお徳を頂いていけれる道が開けて来る。是が愈々ねいい加減なことではなくてです、もう本当に確信付けられると言う事です。そこでですそこで求められる信心というのは、所謂神様任せの信心という事になるのです。所謂神ながらな生き方と言う事になるのです。自分の意思ではなくて神の意思によって、生活が出来るという生き方なんです。昨日私は久留米の井上さんのお宅の霊祭を奉仕させて頂いて、頂いた御理解の中に、昨日の朝お食事の時、高橋さん若先生と繁雄さんと四人でお食事させて頂いた。
何の事からでしたか。若先生がとにかく日本という国は、大した国でありますよち。やっぱ昔から日本は神国と言うが、確かに神国ですよと言うて、日本国の素晴らしい事を、是だけでも、神国と言われる値打ちがあるという意味の事を言ってるんです。確かに日本国民は、神様を尊びしかも、神様を恐れる思想というものが、神代の昔から続いて来ておる事だけは事実ですね。
そりゃ古事記なんかを私共は少し、まぁ読ませて頂いたり勉強させて頂いてからそれを感ずるです。ですから神様を尊ぶという、恐れおののくほどしに神様というものを頂いておる。それがなるほどこんな小さい、いうなら島国である日本がです。世界の人達が目をある意味では見張るような事が出来たり。なされて来りしてきたんだとこう思うです。そこでです私共の信心というのは、どこまでも矢張り神ながら、所謂だから古神道から申しますと、神ながらな道とこう申します。
それを矢張りお道でも私も、さかんに使います神ながらという事を。だから神ながらな生き方というのがですね、いわゆる神様を中心にした生き方なんです。いうならば、神様任せです。ここで皆さんがそれを、親先生任せとこう言うておられる。船は帆任せ風任せ。もう神様任せ。そして自分が何処何処の港に着こうじゃない。神様が寄せて下さる港に着かせて頂いた時には、もうそれこそ夢にも思わなかった様なおかげの展開になって来るのです。これが神ながらな道なんです。
してみるとです、シナの思想なんかというものはもう、全然反対なってくるですね。例えば孔子とか孟子とかと言う、偉い聖人君子と言われる方達が残しておる教えとは、全然違うです、神ながらな道というのは。その事を私お食事させて頂きながら、昨日話したことをです、昨日その井上さんとこの霊祭の時にご理解に頂いたです。例えていうとシナの偉い人の言葉にですね、「李下に冠」という言葉があるでしょう。梨畑の中に行ったら、冠の紐を結んではならない。
こう手を上げるからそれでね、梨泥棒だと言われる恐れがある。だからそこは慎めとこう言うわけです。瓜畑に行ったら、決して靴の紐を結ぶなと。瓜をちぎったと、皆から誤解されても仕方が無いぞと。と言うのが、いわば聖人君子が教えられた道なんですよ。そういう慎み深い生き方と言うですかね。ところが神ながらな道というのは、そうじゃないです。例えば梨畑の中におろうが、冠がゆるんだならば、紐を結ぶのが神ながらです。いわゆる、神様だけがご承知の世界に生き抜くというんです。
例え泥棒といわれても、自分のここの梨をちぎっとらなきゃいいんだという生き方なんです。私共のここ二十年間の生き方は、それだったと思うです。もうそれこそ棒にも箸にもかからんように、合楽んことを色々批判されたり、悪口を言われたりしましたけれどもです。こちらは神様だけがご承知の世界に生き抜いているんですから、誰が何と言いたって。だからこうやって手を上げとる時には、ありゃ合楽は梨泥棒したと、まぁ言う様な意味の事を言われてきたわけですけれども。
だから神ながらな道というのはです、所謂、神ながらに生きると言う事。自由奔放というような言葉がありますね。それをここではあるがままに、なるがままにと言う様な生き方です。お任せしきったが最後、お願いをしたが最後、もうそこからはあるがままに、なるがままにという生き方。そこで私は昨日、井上さんにその事を話した事でしたけれどもね、お姉さんの方です。もう実に自由奔放な生き方をされた方ですね。ご主人を亡くされて三十年になる。この方の生き方というのは、いうならば赤裸々な生き方。
だからそれは神ながらな生き方をしたのですから、是からは井上さん、神ながらな受け方をしなければいけませんよと私は申しました。だから是とそれとが一つになった時に、いうなら、先日から頂いておりますように、「天の配剤」ですかね。素晴らしいタイミングが生まれてくるのです。ただ神ながらな生き方だけではいかんです。今度は神乍らな受け方が出来らなければ。そこん所を、ここでは成り行きを大事にするとか、御事柄として受けていく。神ながらに受けていくというのです。
そこから良いものが生まれてくる。
親先生任せと。楽ではないそれは心配な事もある。度胸が出来なきゃ、なかなか出きるこっちゃない。もう竜宮城におかげは絶対だと、私任せになればとほんなら私が申します。いうならば亀の背中に乗った浦島太郎のようなもんです。竜宮まで行く間にはです。波も荒うなる。海もいよいよ深うなる。そういう中でですこれも親先生任せになって、こりゃどげなこつになるじゃい分からん。もうそれこそもう早う亀の背中からおりて、自分で泳いで何処さんか行こうごと思う様な事もある。
これは亀が何処へつれて行くじゃい分からん。だからそういう親先生任せ。いうなら亀の背中にある時にです、私共は、いよいよ信心を分からせて貰い、今日のご理解でいうなら、練り出させて貰い。大きな波に飲まれんばっかりのようなところを通るかも知れんけど、そういう時に、信心の度胸が出来る。信心辛抱の力が出来る。私はここん所が、一番素晴らしいのですけれども、そこのところでですもう本当に、あの時にはどげんなるかと思うたけれども。
親先生が右と仰るから右としておりましたら、この様な夢にも思わなかった様なおかげを頂いたという例を、皆さんが誰でも体験しておられる事だと思います。それが一言二言ではなくて、徹底本当にその竜宮です、それにも絵にも描けない美しさとか。百味の御食的な、いうなら竜宮で乙姫様のサービスが受けられるほどしのおかげをです、私共が頂かせて貰わなければならん。
だからここで私が日々、私の信心からさらに生まれてくるその御教えというものを、皆さんが、本気で聞かれて。そして只今申します。いわゆる神ながらな道をです、神ながらな生き方をです途中ではです、人が泥棒と言うかも知れません。人が又は笑うかも知れません、そしるかも知れません。梨畑ん上でありゃ手ばこう上げとったが、ありゃ梨取ったっじゃなかじゃろうかと、言われる様な事があるかも知れません。信心しよってあげな事でよかじゃろうかと言われる事実があるです。
けれどもそこん所は親先生任せにならせて頂いておる姿なのですから。そこを矢張り頂き抜かなければならんけれども、なら多くここでお取次ぎを頂いて、おかげを頂いた人達の中にです。いわば亀の背中からおりて、自分で勝手にね生き方をそこにして、おかげを落としたり又は自分で我流に泳いで竜宮とは似ても似つかん所に着いたりしておる人達が、沢山ありましょう。そういう神ながらな生き方と同時にです。所謂神ながらな受け方を合楽ではやかましく教導するわけです。
難儀な問題であっても、それを難儀と本当の事を分かろうとする神愛として頂く。神ながらな生き方。それに、神ながらな受け方。この二つがね、同調していかなければならない。足ろうていかなければならない。そこから、竜宮到着も、おかげは絶対という事になるのです。ところが、ほんなら、それで良いという事じゃないのです。それからが、今度は、いよいよおかげを頂いた後が、実は難しいんです。
ところがおかげを頂いた時点でです、いうなら自分の我流になりたがる人が多いのです。自分勝手な信心になって行く人が多いのです。そこからです例えば浦島太郎が、乙姫様との分かれをして玉手箱を貰うて、又自分の国に帰って来る。ここまでが信心なんです信心は。決してこの箱を開けちゃいけませんよと。と言われておるのをちゃんと忘れっしもうとる。そして又元の木阿弥に戻ってしまうわけである。おかげをいわゆる親先生任せ。亀の背中に乗ったら、竜宮行きは絶対だと。
けども、それから先の信心がです、おかげを受けてそれから後の信心が、生涯続けられると言うかね。氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならん。十里の坂を越えて、向こうへ下りたら安心じゃと仰るのがそこ辺の事だ。頂上に登った所がです。それまでだって色々な難関を通り抜けて竜宮へ着いた。その間に信心の度胸も出来た。力も出来た。おかげでこういうおかげが受けられるようになった。そういうおかげが受けられる様になった時点でです。
そこから練り出す事をせずに、徳を受けられる道を歩かずに、只おかげの世界だけに彷徨うておるような信心ではならん。そこから愈々神様との誓いを破らないという信心。生涯かけての信心。向こうへ降りるまでいうなら私共が、この世からあの世に参ります、そこまでです。信心をしっかり所謂、ぼやっとしてから玉手箱どん開くるような事になっちゃならないという事なんです。
これは色々に形容するとです。一つの願いという事てもそうですよ。本当に不思議なおかげを頂いたというのも、ある意味で竜宮着いたと致しましょうか。その後の信心を大事にしないから、又元の木阿弥に戻ってしまうという例があるでしょうが。今日私が言ってるのは、そういう小さい部分的なものじゃなくて、本当の意味においてです、私共が竜宮に到達するほどしのおかげ。それは私共が夢にも思わなかったようなおかげなんです。そのおかげは。
この頃から、日田の綾部さんが、私の三年間の信心と言うて、あれは研修会の時でしたか、お話になりましたが。これなんかはまさしく三年間で、竜宮に到達したという感じです。皆さんも聞かれた通りですよね。ですからこれからの、いうならば玉手箱を貰うて帰るまで、帰ってからの信心が大事なんです。ここでやれやれと言うたら信心は駄目。それからが徳を受ける信心。そこから本当の意味においての、練り出す信心というものが生まれてこなきゃならんのです。
金光様のご信心は、段々信心を頂いて参りますとです。信心の無い者が又信心の薄い者が、分かるはずではない世界に出ます。だからそういう時を一番大事にしなければならない。いよいよ、神ながらな道を歩かにゃならん。教祖様が神様からお伝えを受けられた。親戚の誰々が亡くなったから、お悔やみに行け。しかも親戚も連れのうて、呼び誘い合うてから行けと仰る。だから親戚中の人達、近所の親戚の方達を連れのうて、○○さんの親戚のお家に行かれると、当の本人が出てこられた。
もうそれこそ、こりゃまぁ私が思う所ですけれども。ほんに穴でもあるなら入ろうごたる思いをなさった事だろうと思うです。連れて行かれた方達の手前。又向こうから、亡くなったという本人が出て来て、やぁ皆さん今日は何事ですか、お揃いでと例えば言われた時の教祖様のお気持ちというものはね。けれども神様が教えられたのであるからです。それを、いわば完受しておいでられる。黙って受けておられる。帰りがけには神様が、教祖様へ向かって、戻しの風は十そう倍。
戻しの風は十そう倍、と言うて帰れと仰った。そう言う所があるです、金光様のご信心の、いわば神髄に触れて参りますと。だからそういう世界ではです、本当に人が悪口を言うたり、人から笑われるような場合もありましょう。けれどもそこん所を、神様を信ずると言うか、親先生を信ずると言うか信じきって。ほんなら綾部さんの例をとると、もうそれこそ日田中の人が馬鹿んごと言うた、一つの事柄があったんですよ。もうあの人が合楽に呆けとってち、言われるような言い方をされられた事があったんです。
けれども戻しの風は十そう倍、戻しの風は十そう倍で辛抱されて、本当に戻しの風は十そう倍的な、おかげを受けられたと言う事になるのです。だから信心の結局薄い者は、無い者が分かるはずがないです、信心の世界をシナの例えば、道徳的な修養的なことならばです、誰でもが合点が行くような生き方ですから、誰でもが合点がするような生き方をしますけれども。それでは、決しておかげというものは受けられません、徳というものは受けられれません。李下に冠的なです、生き方では。
そういう私は、生き方が出来る所にです。一番初めに申しましたように、お取次ぎを頂いて起きる事。良い事悪い事みな良いと言う結論が出てくる体験が受けられます。又は、お取次ぎを頂かずして起きた事は、良い事悪い事みな悪いという確信がです、愈々出来る。そこから本当の意味においての、お取次ぎを頂いて助かる。お取次ぎを頂いてお徳を受けるという道が、愈々開けてくるのですよね。
どうぞ。